LGBTQ+という言葉の影響
近年、LGBTQ+という言葉が普及し、「僕も!」「私も!」と手を挙げる人が増えてきました。
かく言う私もその一人で、隠していた(恥ずべき事と思っていた)内面を、オープンにしやすくしてくれた言葉だと思っています。
そういう意味ではとても有難い言葉だと思います。
かつて、私は工場勤務をしていたことが有ります。
まだ性違和をオープンにしていない頃の黒歴史のひとつです。
作業服に着替えるために男性更衣室へ入る必要がありました。
当時、既にレディースを着用していたの私は、恥ずかしくて隠れるように素早く着替えるようにしていました。
レディースと言っても、中性的でボーイッシュな服なのですが、それでも「変なファッションセンス」と言われたことが有ります。
更衣中に私のことをじっと見るなり、何も言わずに「奇妙なものを見るような顔」をする人も居ました。
心に深く傷つきましたし、沢山悔しい思いをしてきました。
「個性」と理解されるのに、相当な時間が必要な時代でした。
では、今の時代ではどうでしょうか?
やはり「変なファッション」「奇妙な人」と思う人が多数だと思います。
違いありません。
それでも、多少理解が進んでそう思う人は減ったのではないでしょうか?
―私はそう信じています。
さて今後、ますます理解が進んで「個性」として尊重され、自分らしく生きることができる時代がやって来ると思います。
それこそ、小中学校でも生徒の呼び方を「~さん」に統一したり、男子が学生服にスカートを選んでも良くなったり…。
この時代に生まれてくる子たちは、きっと今の時代では理解できない色んな子に育つのでしょうね?
正直羨ましいし、この時代に生まれたかったなと強く思います。
LGBTQ+と誤った思考
冒頭の方で「そういう意味ではとても有難い言葉だと思います。」と言いましたが、勿論、そういう意味ではない部分が存在します。
LGBTQ+という言葉が持つ影響は、必ずしも良い事ばかりでは無いと私は感じているからです。
レインボープライド「性的指向および性自認にかかわらず、すべての人が差別や偏見にさらされることなく、より自分らしく生きていくことができる社会の実現を目指す」を目的にした運動があります。
私も当事者ですので、差別や偏見がなくなれば本当に嬉しいことだなと思い、このプライドに賛同します。
ところが、極稀に行き過ぎた思考、主張の強い方がいらっしゃいます。
例えば、自称トランスジェンダーの方(生物学的な性が男性)が入浴施設にある女性用浴場に侵入して逮捕された事件がありました。
「心は女」で女性用浴場に入れるのか?と言ったら、当然入ることは出来ません。
気持ちは良く分かります。
私も温泉が好きなので入りたいです。
ただ、今となっては男性用浴場も入りづらいですし、当然、女性用浴場にも入れません。
もう何年も我慢(貸切という手段が有りますが割高なので)しています。
トイレも同じです。
この方は本当にトランスジェンダーなのかもしれませんが、トランスジェンダーとして生きていくのであれば大人として常識的な一線を越えてはならないことの認識を持つべきです。
守れないのであればトランスジェンダーではなく、ただの変態、犯罪者です。
我々と一緒にしないでいただきたいところです。
今後、多様性やLGBTQ+という言葉を悪用する人が出てくる可能性を懸念しますが、出ないことを切に願います。
セクシャルマイノリティー当事者として
私はこれまでにトランスジェンダーであることを就職面接時に公表した上で、ある会社にお世話になりました。
特にこうして欲しいなどの要望は言わなかったのですが…。
本当に色々なのことに気を遣っていただき、更衣室も健康診断も女性として用意してくださったのです。
私のことを理解しようする姿勢がすごく嬉しかったです。
ただ、身体的特徴や声など、周りの従業員は私のことをどのような性別に見えているのかすごく不安で、女子更衣室に入ることや健康診断で女性と一緒に居ても本当に大丈夫?とすごく考えさせられました。
職場責任者の許可があったとしても、誰か一人でも「嫌だな」と思う女性が居るのであれば、私は身を引くべきだとずっと考えていました。
会社としてどのように対応して良いか分からず、困らせてしまった背景があると思います。
「トランスジェンダーなのでこうしてください」「差別しないでください」と要望・主張しなかったとしてもです。
結局のところ、折角の会社の配慮が逆にストレスで適応障害になってしまい、早期に退職することになりました。
今でも非常に申し訳ない気持ちで一杯です。
この経験を踏まえて私は、当事者としてのプライドは持ちつつも、それを他人に押し付けたり、多様性の時代だからと他人に理解を委ねないように心がけたいと思いました。
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